写真でミルトン・エリクソン先生は、紫の服を着て顎を手に乗せておられますね。
とても荘厳で深い叡知やどこか神秘的な雰囲気が伝わってきますが、
それについてご説明下さいますか?

 それらに最初に気づかれたのは面白いですね。ある意味、両方とも、父が体力的な困難を抱えていたことの現れです。彼の良く知られたポーズからお話ししましょう。
 父は若い時にポリオにかかりました。大変つらい難病です。当時17歳で、頑張り屋の農家の息子でした。一晩で病気は命を脅かし、永久に身体的な障害を残しました。しかし、病気と回復に費やした時間が、回復力という人間の本質への深い理解を与えてくれました。その期間に彼は、ヒプノシスや癒しの中で無意識の果たす中心的な役割に敬意を払うようになりました。
 20世紀の前半には、ポリオによる永久的な筋肉の衰えから回復するには、激しい肉体運動しかないと考えられていました。彼は1年かけてようやく歩けるようになりましたが、杖はずっと手放せませんでした。右手足の方が、左よりも影響を受けていたので、あのポーズで通常のバランスを取り戻そうとして努力を重ねました。
 彼は強くパワフルにさえ見えましたが、それは今ある自分に取り組み、存在感を放つバランスを見つける努力の結果でした。
 彼はオフィスの机に座っているときは、特に片肘にもたれ掛ける姿勢を取りましたが、それは内から外へと自分の筋肉や姿勢を感じ、自分のバランスを探していたのだと思います。
 彼とそれについては話をしませんでしたが、なぜ彼があれほどに様々な能力を発揮できたという興味から、そう考えるようになりました。

そのようなすさまじい努力の結晶だったとは驚きです。
では、紫色の服にはどのような意味があったのでしょうか?

 私は家族の中で、彼に紫の服装を始めさせた一人です。父は色盲で、紫だけが彼がすぐに見分けられる色でした。
 いつも彼は、紫のシャツやネクタイや靴下などのコレクションを揃えていました。紫のものは、少ない彼の好みだったので、周囲の人が買ってあげていました。
 私が高校生の時、彼は体調を崩して、数週間ベッドから起き上がれませんでした。今はそれがポリオ後症候群だったことを知っていますが、当時は何が悪いのかよくわかりませんでした。
 彼はクライアントの診察をキャンセルしなければなりませんでしたが、少し経つとだんだんと電話で受けられるようになりました。そして何人かは、実際に診なければいけないと彼は感じましたが、身なりを整えられるまでには達していなかったので、パジャマとバスローブのままオフィスで診察しました。
 私はよく裁縫をしていて、どんなにしんどくても、彼がその服装のままオフィスでクライアントさんを診察するのはよくないと思いました。ですから、丁度良い材料を用意して見た目も良くてパジャマのように楽に着られる服を作りました。
 彼の好きな色を選び、カジュアルな普段着にしました。彼はすごく喜んでくれて、追加が欲しいと言いました。そして姉妹たちも縫い始めて、その一人が裁縫師を雇って、スーツも何着か作りました。
 その後に父は、それにボロタイ(アメリカ先住民などの紐と留め具のネクタイ)とお気に入りのシャツを合わせておしゃれをしていました。本当に良く似合って素敵でした。普通のスーツとズボンには戻らなかったと思います。それが彼のトレードマークになり、彼との面会が、どれだけ特別だったかという話に花を添えました。

お父様への愛の象徴だったわけですね。
お父様とご家族の生活について少し教えて下さい。
ロクサーナ先生の子ども時代は、どのようなお家に住まわれていたのでしょうか?
お父様のお仕事は、家族の中でどんな意味を持っていましたか?

 私には7人の兄弟姉妹がいて、父との子供時代も本当に家族の営みでした。
 我々は22年の年齢の幅があり、私は7番目の子どもでした。年長の兄弟たちは、当時父がミシガン州のエロイーズ州立病院に勤務していたので、そこで育ちました。
 その後、父が個人開業したアリゾナ州で年少の我々は育ちましたが、かつてとは、全く環境が異なりました。
 両親は1948年に引っ越して、私は1949年に生まれました。父が自宅に診療室を開いて1年後でした。兄や姉は「お父さんはいつも仕事をしている」という不満を持っていたようです。
 実際に彼は働き詰めでしたが、年少の子どもにとっては、父がいつも家にいたことにもなります。彼に相手をしてもらいたければ、私たちは、順番に彼のところに行けることを知っていました。
 母と父は、何事もパートナーとして行っており、私たちも彼の仕事は家族ビジネスだと感じていました。私たちは家庭を営むという大きな絵の中で、責任や大事な役割を持っていて、彼の仕事にも貢献していました。
 私たちの家は1500平方フィート(約150平方メートル)とアメリカ基準では小さめで、4個の寝室がありましたが、1部屋は父のオフィスでした。母と父は1つの寝室をシェアし「女の子部屋」と「男の子部屋」がありました。共有スペースはすべてクライアントさんが使われていました。
 トイレは1か所で、秘書はダイニングに座り、リビングが待合室でした。いつも犬が迷い込んでは出て行って、子供たちは寝室が狭かったのでリビングで遊んでいました。夕食後に父はオフィスに戻って書き物をしましたが、私たちが話をしたければ、ただ入って椅子に座ったり床に寝そべったりして、彼が鉛筆を置くのを待ちました。彼は目を上げると私たちが望むだけ付き合ってくれました。その後、また鉛筆をもって書き物を続けていました。

クライアントさんがお家に来られていたと思いますが、
お子さんたちはその中でどう生活されていたのでしょうか?

 私たちは、お互いを尊重するように教えられていました。それはクライアントさんのためだけではく、狭い空間を共有していたからです。
 おもちゃを片付けたり、小さい頃よりルールを学んだりしました。私たちの方から話しかけることはありませんでしたが、クライアントさんが質問したらオープンに配慮をもって答えるように言われていました。クライアントさんの方が会話を始めた時だけでしたが。
 私たちにはクライアントさんたちに受診の理由を聞いてはいけないという厳格なルールがありました。父にその質問をすると「タバコを止めるために来たんだよ」といつも同じ答えが返ってきました。それは「自分と関係のない質問をするものではない」ということを暗に言っていました。それを何度も聞いてきて、今になって禁煙の支援を熱心に行っているのは、小さい頃の経験と関係しているのかしらと思います。

クライアントさんとの交流でのエピソードはありますか?

 クライアントさんとは楽しい思い出があります。リビングの床に座ってトランプや人形で遊んだり、椅子に座って漫画を読んだりしました。ある日本人女性は、私がまだ幼い時に折り紙のボールづくりを教えてくれました。兄・姉はそれを学ぶにはまだ小さすぎると思ったようですが、彼女は本当に我慢強く教えてくれました。彼女の優しいお顔をまだ覚えています。別のクライアントさんは、妹がまだ4歳の時にチェスを教えました。彼女は家族で一番チェスがうまくなりました。

素晴らしい、心温まるエピソードですね。

 家族と彼の診療の融合は、とても珍しいモデルでした。当時も稀でしたし、現在では全く耳にしません。たぶん父の時代に農村地域であった「田舎のお医者さん」が基づいていたと思います。
 健康的な人は、地域の中できちんと生活できるものだという考えを大切にしていました。我々子どもたちは、年齢や成熟度が違ったので、クライアントさんたちにとって普通の日常会話で心を通わせるための格好の練習材料でした。
 我々は同時に安全で、クライアントさんたちが変わった行動を取ってもびっくりしませんでしたし、質問攻めにすることもありませんでした。クライアントさんはどんな言動を取っても受け入れられましたし、私たちは何か驚くことや混乱することがあれば父に聞くことが出来ました。我々全員の人生を豊かにしてくれました。

お父様のフィロソフィー(理念)が、豊かな場所を作り出していたわけですね。

 クライアントさんと打ち解け合う中で、お友達になり、今でも関係の続いている人も出来ました。定期的に受診に来る人たちは、自分の家のようにくつろいで、友達が普通にすることをしてくれました。
 ある思春期のクライアントさんは、クッキーを焼きたくなってキッチンで材料を探し始めました。私は彼女にルールを伝えました。「料理をするなら自分で後片付けをしないとだめよ」と。彼女は1シート分のおいしいクッキーを焼いて、私たちと食事会を楽しみました。
 別のクライアントさんは大人の男性で、リビングでボールをはねさせて天井のタイルを割ってしまいました。母は仕方がないという体で「ね、だから家の中ではボールで遊んだらいけないでしょう。」と言いました。私たちは天井を直さず、いつもその冗談で笑って心を和ませていました。その日は彼のお祝いの日で、とても幸せそだったので、壊れた天井を見られる方がよいと母は言っていました。壊れた天井は彼の大喜びの象徴なわけです。

それは斬新な考え方ですね。
本当にクライアントさんの主観を大切にされていたのが伝わります。

 私たちは静かにしてオフィスでしていることの邪魔をしないように言われていました。黙っていなさいということではありませんでしたが、小声で話し、友達にもうるさくしないように言い伝えていました。家にはずっとテレビがなく、読み物ばかりでした。しかし、外でスポーツをするときは、大きな音や大声も聞かれました。時々笑い声が過ぎると母から「しーっ」と言われました。しかし、子供たちも大抵は静かで落ち着いた家庭でした。

気立ての良い子も時には注意を受ける…

 診察時間中に友達が遊びに来るときは、ここは「お医者さんのオフィス」だから質問はしないようにあらかじめ伝えておきました。友達が一晩一緒に過ごすときは、家の中のどこででも寝ることが出来ました。リビングやオフィスでも、地下室や裏庭でも好きなところを選べました。私たちの家では、それも楽しみの一部でした。ですから友達の家でご両親に寝室で寝るように言われると少し戸惑いました。

お父様の素晴らしい臨床にご家族も加わられて、
さらに癒しの輪が広がっていたイメージがします。
先生の取り組みに惹きつけられて、多くの方がご自宅を訪ねてこられたと伺いましたが、
ご家族にとっては、色々なお客様がいらっしゃることはどう感じられていましたか?

 多くの場合戸惑いがありました。私たちが彼を特にすごい人だと考えたことはありませんでした。ただよく働く専門家として、他の人たちと同じことをしていたと考えていました。
 近所の方が一人、いつも彼のことを「エリクソン大先生」と言っていましたが、私たちは「なぜ彼女はそんな言い方をするのかしら」と不思議な顔つきで互いを見合わせていました。しかし、私たちも彼が多くの専門的な論文を書いていて、ヒプノシスが科学の世界に受け入れられるように身を捧げていたことを知っていました。また、他の専門家が遠くからやってきて、不思議なくらいに尊敬の念を示していたこともわかっていました。しかし、それでも私たちの彼が普通の人だという見方は変わりませんでした。彼の仕事仲間は、父が本当に特別な人だと私たちに教えようとしてくれましたが、私たちは一人一人が特別なのだと考えるように育てられていました。
 クライアントさんたちから聞かされていたのは、彼らが既に、他の医師や精神科医にかかっていて、「最後の手段」として父のもとに来ていたことです。多くの人が父は奇跡的な癒しの効果を彼らにもたらしたと信じていました。実のところ、日々の責任と喜びに満ちた、本当に良い人生を目指して取り組むことが極めて日常的でした。

お父様の普遍的真理に即した高潔さや人間性への愛情が、
ロクサーナ先生のお人柄からもしのばれます。

 父が熱意を注いでいたから私たちもヒプノシスを学びましたが、他に興味の持てることも学ぶように勧められました。近所には石を集めている人がいて、私たちは、皆その人のおかげで鉱物の価値を理解するようになりました。また版画の器具を持っているご近所さんもいました。多くの人が持っている、特別な能力について学ぶことも人生の一部で、彼らの興味や熱意を学ぶことで私たちの人生が豊かになりました。

知的好奇心の広がりや可能性が表れていると思います。
興味を払うことで、学びが一層楽しくなりますね。

 世界中から人が集まったので、学びの機会もたくさんありました。母は訪問されたお客様を熱心におもてなしするお手本を見せてくれました。中には窓からのぞき込む人がいて、母は、私たちのだれかを外にやって、家に招き入れようとしました。多くの場合、それは父の取り組みを勉強してきた外国の方で、彼らは興味津々でした。それは今でも続いています。
 両親ともに他界して、敷地はエリクソン財団が所有していますが、ドアには「ツアーをご希望の場合はこの電話番号におかけください」という掲示があります。このようなことは友達の家ではなかったので、子供たちもおかしなことだと気づいていました。父は普通の人に見えたので、いつも合点がいきませんでした。

世界中から訪ねて来られるお客様の中に、
日本人の方はいましたか?アリゾナまで足を運ばれた方、
その中で特に印象に残っている方がいれば教えて下さい。

 皆さん日本を含め世界中からいらっしゃいました。一人の方を覚えています。彼は他の方より長く滞在し、ちょうどクリスマス休暇で、私たちも学校がお休みの時期でした。
 成瀬先生とおっしゃいました。彼と父はオフィスで長時間話し込んでいました。成瀬先生は英語を少ししか話されなかったので、何をそんなにしゃべっているのか子どもたちには不思議でした。私は当時10歳か11歳ごろでした。成瀬先生は小柄で、妹のクリスティや私よりも低いくらいでした。日本人には、アメリカ人はとても大きな人種に見えるでしょうね。
 彼はいつも私たちとお話をしようとして、次々と会話を引き出してくれました。私たちが話している間に、彼は頭を前後に揺らしたり息を出したりして聞いているのだと示してくれました。これは私たちには違った文化の体験で、楽しかったです。彼が私たちの言うことを理解していたかはわかりませんでしたが、彼とお話しするのが大好きでした。お話をしながら彼が頭を動かして、礼儀正しく息を出すところを見るのが楽しかったです。

成瀬先生もお父様に似て、特別な魅力をお持ちの方だったようですね。
そのお人柄が、まだロクサーナ先生の心の中に生き生きと存在しているのを感じます。

 私たちはグランドキャニオンへ車で出かけ、渓谷の探検家の友人と数日を過ごしました。母がステーションワゴンを運転し、成瀬先生が助手席に座り、クリスティと私が後ろにいました。
 彼は形式の変化にとても興奮していたのを覚えています。道中クリスティと私は先生のリードでしゃべり続けていました。
 だいぶ北に進んだ時、人気のない脇には雪が残っている道をインディアンのカップルが歩いていました。母は一度通り過ぎましたが、後戻りして乗せてあげることにしました。彼らは高齢のナバホ族のご夫婦でした。伝統的な衣装を着て、銀の装飾品を付けていました。どちらも英語を全く話せませんでした。
 今度は4人で後部座席に座り、母が会話をリードしました。母は成瀬先生にこの出会いのすべてを逃さず体験してほしかったようです。細部にまで表れた彼らの伝統、髪の結い方、装飾品、モカシン靴、生地やデザイン。それらすべてがその時の美しさを形作っていました。
 インディアンも、アメリカ人のように相手を直視するのではなく、視線を落とす習慣を持っています。だから、クリスティと私は成瀬先生とインディアンの夫婦がどのように相手を直視せずに見るのか観察しようとしました。このように車中では3か国語が話されていました。素晴らしい一日でした。もちろん、渓谷も壮大で、世界の秘境の名にふさわしい景観でした。
 我々は初期の渓谷探検者の一人で友人のエマリー・コルブを尋ねました。彼は、そこが国立公園になる前から住んでいました。成瀬先生とコルブさんは長い時間お話をしていました。ほとんどはコルブさんが話しかけて、成瀬先生は景色の偉大さに目を奪われていたようでした。

それは成瀬先生にとっても、ロクサーナ先生やお母さまにとっても、
壮大な自然と多文化の豊かさが同時に感じられる最高の体験でしたね。

 その週の終わりに、グランドキャニオンから戻り、いつものことですが、父のオフィスで彼を冒険に加えました。彼は常に事細かに質問するので、話し終えた後には、彼もずっと一緒に車にいたような感じになりました。

実体験できるほどの観察眼や共感をお持ちだったわけですね。

 成瀬先生と父の関係は何年も続きました。お互いに尊敬を払っていました。先生が彼自身の形で興味と共感をお示しになったことで、私たちの家、車、国の冒険が、私たちにも貴重なものになりました。
 私の中に本物の温かさが長く残りました。彼とは全くわからないと感じつつも、同じ人間としてのつながりと理解があったと感じています。

日本でエリクソン催眠を研究されてきた先生方はそう多くないですが、
成瀬先生のような開拓者のご尽力が、我々が学びの場に繋がっているのだと思うと、
感謝と尊敬の気持ちがあふれてきます。
ご家族の毎日の暮らしがどんなだったかもう少しお話ししていただけますか?

 父は朝早く起きてきて、夜遅くならないと寝ませんでした。彼は殆どの時間をオフィスで過ごしましたが、夕食は家族とともに取り、たまには夕方、ラジオのプログラムに耳を傾けていました。
 大体お昼間に横になって休憩を取り、私たちも一緒に横になって本を読んでいました。特別なご褒美としてポップコーンを作ってくれることもありました。そして私たち一人ひとりに深く興味を持ってくれました。

お父様がお子さんたちに伝えられていたこと、
ご両親との生活の中で今の先生のお仕事につながっていると
お考えのことはありますか?

 今になって振り返ると、父は強い興味を示すことで、意図的に行動と考え方のお手本を示してくれたのだとわかります。
 私が学校から帰宅すると、父は家までの道順について尋ねました。そして、道すがら気づいたことについて細かく質問しました。今では、感覚の記憶を呼び覚ましてトランス状態に入ることを教えてくれたのだとわかります。
 彼はどの道筋を選んだのか、判断を加えることなく、ただ私が通った道と途中で気づいたことだけを知りたがりました。小学校からはたくさんのルートがあったので、彼は他の道は通ったことがあるか、命令口調ではなく、単なる好奇心として聞いてきました。私も当然として好奇心を持ちました。そこで彼は花や木や建物について、近くに友達が住んでいるか、動物はいたかなどのよくある質問をしました。
 今では私も興味を持って探求するライフスタイルを築き、お手軽なルートに甘んじるのではなく、何かの発見を積極的に追求するようになりました。彼が私の中にそれを耕してくれたのか、私自身の探求心に気づいたのか、単にそれを私とシェアしたかったのかは、おそらく今後もわからないでしょう。しかし、それが私自身の中の特質として、父と共通しているものです。

大変興味深いお話ですね。成瀬先生の時と同様に、
お父様はロクサーナ先生と一緒の帰り道を楽しまれていたのでしょうかね。

 私たちは非常につつましい、節約を旨とした生活を送っていました。母からは収入を当たり前のものとしてあてにできないので、今持っているもので生活しなければならないと言い聞かせられました。
 父は診療に対して、専門家への支払いからは程遠い控えめな料金しか求めませんでした。
 私たちはできる限り再利用しました。裏紙があれば、裏紙用のボックスに保管しました。彼を含めた家族全員がアイデアなどを書き出すために使いました。私は今でもラフ案を書くための裏紙を入れる箱を作っています。
 彼は特別なペンシルホルダーも持っていました。ちょうどたばこのホルダーのような形で、他の人たちが捨ててしまった鉛筆の端っこをさして使いました。短くなった鉛筆を削ってシャープにするのは私の仕事の一つで、それを父の机にある専用の箱に入れました。子供たちは他の人たちが捨てた「裏紙と鉛筆の端」を持って帰りました。それは家族がまとまって見過ごされている価値を見つけるという一つの楽しみでした。
 父として、家族人として、彼は常に興味津々で学びを忘れず、楽しいことを見つけて回っていました。彼はどのように人生を生きるかの良い見本でした。
 彼は人間の本質であるレジリエンシー(回復力・しなやかさ)やそれぞれの人が持つ世界に意義深い貢献をする力に深く関わろうとしました。

ミルトン・エリクソン先生が、
崇高な精神を日々の生活でも実践されていたことがわかりますね。

 自分に気づきを持つこと、他者に優しさと配慮を持つこと、ベストを目指して努力することが、家族の中では大事にされていました。そして、自分や他人に感謝すること、自分ができる形で社会に貢献すること、一日一日を満喫して楽しむことを学びました。

お父様は優しさをもって、偉大な精神を引き継ごうとされていたのですね。

 今は父が専門家として、ずば抜けたスキルを持っていたことがわかります。
 彼が専門家として、ヒプノシスを現代医学に持ち込むという高邁な目標を掲げ、それを達成したことは私にとっても恩恵となっています。
 彼の取り組みにおける気づきや関心が、世界中に波及し続けていることは驚きです。そして、日本に来て彼についてお話しできることを、本当に光栄に感じています。