Home > 座長対談 > vol.1 ローランド・ウィリアムズさん

座長
今日は米国から依存症のスペシャリストのローランド・ウィリアムズさんをお招きしてインタビューしたいと思います。まず、ローランドさんの米国での主な活動についてお話ください。
ローランド
私は依存症のセラピストで1986年よりこの依存症の治療の分野で働いています。同時に大学の教授として依存症について教えています。また、さまざまな施設のプログラム開発や、そこでの治療の品質向上のためのコンサルティングをしております。
カウンセラーとしての仕事もずっと続けておりまして、さまざまなクライアントの診察も行っております。そのクライアントの方々は医師、弁護士、会社の役員などエグゼクティブの方々もたくさんおられます。さらに、リラプス(再発)の予防、採取の予防や文化的に配慮した治療はどういったものかという本も書いています。私自身も依存症から回復し、28年半のクリーンがあります。自分の回復をとても誇りに思います。
私は、依存症のセラピストで、1986年よりこの依存症治療の分野で働いています。同時に大学の教授として依存症について教えています。そして、さまざまな施設のプログラム開発や、そこでの治療の品質向上のためのコンサルティングをしています。
カウンセラーとしての仕事もずっと続けていて、さまざまなクライアントの診察も行っています。そのクライアントの方々は医師、弁護士、会社の役員など、エグゼクティブの方々もたくさんおられます。また、本も執筆していて、それはリラプス(再発)、採取の予防や文化的に配慮した治療はどういったものかという内容となっております。私自身も依存症から回復し、28年半のクリーンがあります。自分の回復をとても誇りに思っています。
座長
ありがとうございます。ローランドさんにとって依存症とはなんでしょうか?依存症になる原因や背景、そういったものにも触れていただけるとありがたいです。
ローランド
依存症とは、人生をコントロールできない状態のことだと考えています。本人にとって、かつては解決策だったはずのものが、やがて問題に変わっていく。進行すれば家族や仕事も徐々に破壊されていき、人生が崩壊します。そういった強力なものなのです。
今の社会では簡単に依存症に陥る危険性があります。なぜなら、薬物がたやすく手に入るからです。アルコール、大麻、医師の処方薬であったり、違法薬物であるコカイン、スピード、ヘロイン、シャブ、覚醒剤、さまざまな依存性のある薬物が手に入ります。それを摂取する人は、自分の感情を変化させたい、つまり不快な感情や痛みを取り除きたいという欲求から、酒を飲んだり、薬を打ったり、吸引したりします。
しかし、人生は良いことばかりではありません。悪いことも起こります。ですから、気分が良くなりたいと思うたびに薬物を使うのならば、繰り返し何度も使わなければなりません。このように、薬物というものは依存性が強いものであるということを、認識しなければいけないのです。
座長
気分を変えるために即効性のある物質を摂取し、その結果、多くの人が依存症に陥って、人生がコントロールできなくなる。とても簡潔でわかりやすい説明でした。
「薬物乱用者」と「薬物依存症者」との違いについて、もう少し詳しく教えていただけますか。
ローランド
それは非常に良い質問だと思います。統計によれば、アルコールにしろ、薬物にしろ、摂取する10人に1人が依存症に陥っています。依存症の診断基準を満たす人がそれだけ出てきてしまうということです。
使用という部分の流れの中で線引きをすることができると思います。
「社会的な使用」から「乱用」、そこから問題が発生する「問題使用」、最後に「依存症」という流れがあります。
摂取するほとんどの人は自分が依存症だとは考えていません。実際、依存症まで至っていない人は多いのですが、彼らは常に依存症になる危険性を抱えているのです。回復という観点から考えてみれば、その見えない一線を越えてしまうと依存症になるわけです。ですから「乱用」「問題使用」、一線を越えて「依存症」となっていくわけです。
かつての診断基準では「乱用」と「依存症」が分けられていました。その違いとしてまず1つ目に、使った後に「離脱症状」が起きる。
2つ目に「耐性」ができる。つまり、同じ量をつかっても効果が減るか、あるいは同じ効果を得るためには量が増えてしまう。
3つ目に「コントロールの喪失」、どれだけ自分が使うことになるのか使う前にわからなってしまう。10回中9回は少しの量で済ませられたけれど、10回中1回は意図したよりも多く使ってしまう。やがて無茶苦茶になり、それが何時起こるかわからない状態になってしまう。
4つ目としては「自分の人生を破壊している」そうわかっていても使い続けてしまう。こうした4つの特徴が依存症の方には見られます。
座長
このインタビューを聞いている方の中には「自分は一線を越えてしまっているのではないか」とか「うちの子供はどうなんだろう」と不安に思っている方もいると思います。この一線を越えるか越えないかのところにいる方に対して、アドバイスや介入の仕方があれば教えてください。
ローランド
依存症の大きな特徴に否認と問題の最小化があります。そしてこれは診断基準の1つでもあります。長く使えば使うほど、自分は問題ないと考えたくなる気持ちが強くなります。
例えば、診断基準が10項目あって、その10の特徴のうち8つ当てはまっている事実があるとしても、本人は当てはまっていない2つばかりに目を向けるわけですね。「まだ逮捕されていない」「まだ注射で摂取したことはない」と考えるわけです。本人の否認も強いですし、家族も自分の愛する人が依存症者だとは信じたくないわけです。ですから、私は専門家としてできるだけ客観的な意見を伝えるように心がけています。彼らは私を専門家として頼っているわけですから。そして、いわゆる標準化されたアセスメント(評価方法)を道具として使うようにしています。この評価方法はいくつかあります。
例えば「DSMファイル」「依存症重症度インデックス」といった質問表があります。また、AA(アルコホーリクス・アノニマス)やNA(ナルコティクス アノニマス)のパンフレットに載っている「自分が依存症かどうかを判断する質問」を使ったりもします。そして彼らには、「私はあなたを依存症だと決めつけたいわけではないけれど、ここに客観的な診断基準があるからやってみなさい」と伝えるようにしています。知識が増え、きちんと理解すれば、その後の取り組みもうまくいくと私は思っています。このように情報提供をすることで、依存症の方自身が「ああ本当だ、私はこんなに当てはまっている」と気付く場合があるのです。
座長
ありがとうございます。ローランドさんご自身も、過去に薬物依存症だった経験があるそうですが、どのような状態だったのか、個人的なお話を少しお聞かせ願えるでしょうか。
そして、どのようにして立ち直ったのか、人生を本気でやりなおそうと思ったドラマについて教えてください。
ローランド
私は1986年の6月10日からクリーンです。私が育ったのはシカゴなのですが、住んでいたところは特に荒れた地域でした。私は養子で、長い間本当の両親を知りませんでした。後になって産みの母親は知ることができたのですが。私は、身体的虐待のある家庭で育ちました。
両親はアルコール依存症で、周囲には薬物依存症もはびこっていました。その中で私は所属意識を持つことができずに育ち、自尊感情も低いままでした。常に暴力におびえていました。
私が初めて薬に手を出したのは11歳か12歳のころで、お気に入りは、せきどめシロップとマリファナでした。薬を使えば直ちに恐れが消えるということを覚えました。自尊心の低さ、所属意識の欠如、強い恐れなどが最初に薬に手を出すきっかけになることはよくあると思います。
家族の虐待から逃げ出すため、16歳の時に私は軍に入隊しました。一般よりも若い入隊年齢でした。
ヨーロッパに行ってからは、ますます薬物依存症がひどくなりました。それまでは注射で薬を入れたことはなく「腕に刺していないから、まだ依存症者ではない」と思っていました。しかしそれは私の否認でした。
アムステルダムにいる時、初めて腕にヘロインを注射しました。その時私は「恋人が見つかった」と感じました。人生でずっと探し求めていたものに出会った気がしたのです。それから29歳でクリーンになるまで、ヘロインは私の人生をコントロールし続けました。毎日ヘロインを打っていました。やがて軍に見つかり、強制的に除隊になりました。その時、私は18歳でした。
除隊になった後は、コカインとヘロインを一緒に使うことを覚え、29歳まで毎日両方を使い続けていました。最初のうちは、私は依存症を楽しんでいました。これで人生はOKだと思っていました。ハイになることを求め続け、それが最高だと思っていました。ハイになるためにはなんでもやろうと思っていました。しかし、だんだんとハイになることが自分にとって義務的な仕事のようになってきたのです。そして最後には完全に薬の奴隷になっていました。30歳までは生きられないだろうと思っていましたが、それでも仕方がない、気にしないと思っていました。
それから2つの大きな出来事が起こりました。1つは1982年に自分の息子が産まれたことです。養子として育った私にとって、初めて得た血のつながりでした。彼は私にそっくりで、ただの依存症者にすぎなかった私ですが、それでも彼を愛していました。
もう1つは1984年に、それまで一緒に育った親友が亡くなったことです。彼も薬を使っていました。私たちは、シカゴからハイになったままカリフォルニアに引っ越し、カリフォルニアに来てから2人でオーバードーズをしてしまいました。そして彼の方が亡くなってしまったのです。私は生き残ったわけですが、そのことがとてもショックで、すべてが変わってしまいました。良い存在であるはずの神が、間違えて私を生き残らせてしまった。彼ではなく私の方を誤って選んでしまったと感じました。
友人が亡くなってからは非常に落ち込んで、自分の依存症をコントロールしようとする気持ちも全く失せてしまいました。頻繁にオーバードーズをするようになり、外見も無頓着になって、誰にも会わない生活が続きました。まるで生きる屍でした。そのころ息子も一緒にいたわけですが、息子にだけは薬を使っているところを見せたくないと思っていました。当時はハイになるためではなく、生きるために薬を使っていました。使わないと苦しくて仕方がありませんでした。
1986年1月のある日、午前6時くらいだったと思いますが、私は当時の彼女と彼女との間にできた息子の三人でクルマに乗っていました。私はヘロインとコカインを使って、ワインを飲んでいました。
彼女が朝ごはんを買ってくると言って、クルマを降りました。彼女はその夜、私について来たのですね。一緒に行かなければ、私が4、5日行方をくらませてしまうので、それが嫌だったのです。
その夜、買っておいた薬は底をつき、最後のワンショットだけが手元に残っていました。それが無くなれば、買うお金をつくるために犯罪を犯さなければならないという状態でした。彼女は、私が犯罪行為をしていることまでは知りませんでした。
ふと振り返って息子の方を見ると、息子は私の方を見て笑いかけてきました。父親である私が好きだったのです。彼は私がジャンキーだとはわかっていませんでした。私は彼から目をそらしました。私が薬を使っているところを見せたくなかったのです。それから彼女の方を見ました。「彼女はこのままずっと私と一緒にいてくれるだろう」「このままでは、彼女も地獄に連れていってしまうことになる」と思いました。それが私の気づきの時でした。
自分の顔を見ると、目は真黄色で、腕にはそこら中に注射の跡があり、爪も血まみれでした。まさにジャンキーそのものの姿でした。それに対して、息子は美しい顔をしていました。自分が自殺するのは仕方がないけれど、彼から父親を取り上げる権利はないと思いました。誰かが彼に自転車に乗ることを教えたり、ネクタイの結び方を教えたり、学校の世話をしてあげなくてはなりません。それを奪うことはできないのです。私は初めて神に「助けてください」と祈りました。
その時はまだ、ハイヤーパワーを理解していませんでした。ハイヤーパワーの介入というのは、とても興味深いものがあります。よく「神は遅らせることはあっても否認することはない」と言われます。結局私も、最後のワンショットを使ってしまいました。そして、お金を準備しなければならないからと言ってクルマから出て行きました。その時、彼女は泣いていました。
その日、私は逮捕され、刑務所に行くという判決が下りました。後にその判決は、治療につながるように修正されました。6カ月拘置所に入り、その後、治療につながりました。刑務所に入っている時も、彼女が毎週薬を届けてくれていたので、刑務所の中でも使い続けていました。1986年6月10日、私は薬を手に打とうとして失敗しました。白い刑務服の上にほとばしった血のことは今でも覚えています。とてもみじめな気分でした。そこに入ってきた刑務官から「お前はこれから施設に行くんだ」と言われ、手かせをはめられて、そのまま施設へと連れて行かれました。それが最後に薬を使った時でした。それからアルコールや薬物は一切使っていません。
今、息子は現在32歳ですが、私がクリーンになって2年たった時に、彼の養育権を取り戻しました。そして、現在の妻と一緒に彼を育てました。結局、彼にクルマの運転を教えたり、学校に行かせたり、学校の宿題を手伝ったりすることができました。彼は私が薬を使っていたころのことは、全く覚えていないそうです。私にとって幸運だったのは、つながった施設が非常に良い施設だったことと、その後NAにもつながったことです。この2つが私の人生を変えました。
息子の母親である彼女はその後も薬を使い続けたので、私たちは別れることになりました。クリーンになって3年たった時に、私は今の妻と結婚をして、それ以来ずっと一緒にいます。もう一人息子もできました。私は今、本当に幸せな人生を送っています。ちょっと話が長くなってしまいました。私が回復の話をすると、どんどん広がってしまうのです。
座長
貴重なお話をありがとうございます。日本の回復者に会ったり、日本の施設を体験してみたりしてどう思いましたか?
ローランド
まず、日本の回復につながっている人たちには本当に感心しました。私は長年この仕事をしていますが、日本の依存症の方たちは、自分自身の感情を深いレベルで分かちあうことができる勇気や真剣さを持ちあわせていると思います。他の国では表面的な発表で済ませる人がたいへん多いのですが、日本の人たちは非常に正直に話をしてくれました。そのことで本当に感心しました。
この国の治療はまだ歴史が浅いということはわかっていますし、必要な資源が不足した状態だということも知っています。それにもかかわらず、みなさんのようなプログラムが行われているということは、とても素晴らしいことだと思います。ここにいる依存症の方たちは、回復したいという強い気持ちをハングリーに持っていると感じました。
座長
依存症回復の専門家として、家族が依存症だと初めて知った人や、自分は依存症なのではないかと初めて気付いた人は、事態にどのように直面したらいいとお考えですか?
あるいは混乱している家族に対し、専門家としてどのような言葉をかけ、どのように接することが大事だと思いますか?
ローランド
もし依存症が疑われ、本人が「もしかしたら自分は依存症者かもしれない」あるいは家族の人が「愛する家族が依存症者かもしれない」と疑う時、おそらくそれは真実だと思います。
私が彼らに対して伝えることは「依存症は死につながる病気である」ということと「進行性の病気である」ということです。悪くなることはあっても良くなることはないのです。ですから、もしあなたが自分や家族の依存症を疑う場合には、すぐに助けを求めるようにと伝えています。
依存症が勝手に解決することはありません。助けを求めて正直に話し、積極的に行動するようにと伝えています。受け身のままでいると、依存症の攻撃性が、みなさんの人生を破壊してしまうのです。
座長
依存症回復のプロフェッショナルとして大切なことは何だと思いますか?
ローランド
まず専門家として一番大切なことは「自分の回復のケア」をきっちりと行い、できるだけ健康的な状態でいることだと思います。健康面がうまく機能していないと、依存症の方を助ける妨げになってしまいます。
治療を求める依存症の方は、命の瀬戸際で戦っていると考えてください。それを助ける責任は大きい。ですから最善を尽くさなければなりません。もし失敗すれば、結果は非常に深刻です。本人だけではなく、子供や親、恋人、社会全体に大きな影響が及んでしまいます。クライアントに対し最善を尽くす準備ができていることが重要です。そのために「セルフケア」を大切にし、「臨床的なスキル」や「治療のスキル」を獲得し、さまざまなリソースを自分のものにすることです。
「もし木が健康でなければ、その木になるすべての果実も健康ではない」ということです。
座長
最後の質問です。これからのビジョンやゴールについて教えてください。
ローランド
私のビジョンや目標、ゴールは、この20年間一貫して変わっていません。それは依存症カウンセラーとしての職業に貢献することです。個人的にも、専門家としても、できるだけ多くの依存症の方が回復する姿を見たい。そして、彼らに希望を与え、回復は可能だと伝えていきたいと思っています。彼らが幸せでより良い生活を送ることができるように、全力で支えていきます。
また、日本の現状について、ぜひ力になりたいと思っています。日本には新たなリソースが必要だということはわかっています。ですから、依存症に苦しんでいる方の回復のために、できるだけのことをしていきたいと思っています。
座長
ありがとうございました。
一同
ありがとうございました。

top