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  • 私たちにも助けが必要だった~依存症問題を抱えたご家族の物語~

2017.09.29

【Vol.3 共依存 2014冬】(ペンネーム:輪子さん)

【Vol.1 おかしい 2014年 夏】こちらからご覧いただけます。

 

【Vol.2 ひどくなる 2014秋】こちらからご覧いただけます。

 

しばらく逢えなかった子供達を持ってしても、飲みに出かけてしまったという事実で、私の中の彼への警戒レベルは一気に跳ね上がりました。本来ならとっくに日本を後にしているはずなのに、私はどうしても帰りの航空券を予約できずに1日また1日と滞在を伸ばしていました。

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思えば、彼の症状は依存症のお手本といってもいいほどでした。

☑ 飲みたいが為にウソをつく。

☑ 一滴でも飲めば、元の酷い状態に戻ってしまう。

☑ 情緒不安定になり、自分本位な行動を取る。

☑ 酒代を払う為に借金をする。

☑ 他の依存症者とは違うと思っている。

☑ 二曰酔いで仕事を休んだり、大事な約束を守らない。

ありとあらゆる依存症の症状に全て当てはまりました。

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でも、もっと厄介だったのは、実は彼の問題を解決していく事を自分の存在意義の為に欲していた「私自身」でした。けれどこの状況が人間関係にも薬物のように依存性があって、一度取り込んでしまうと自分を見失っていく「共依存」なのだということなど、当時は露ほどにも思っていませんでした。

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12月に入り、せめて日本にいるこの機会にと息子を関西の学校に泊りがけの体験授業に申し込みました。じゃあ、数日滞在するならクリスマスだし、待ってる間に一緒に京都に行こうよ。彼と楽しい計画を立て、現場監督の友人は、溜まっていた日当を彼に渡してくれました。

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そろそろ、仕事が終わって東京に戻り次の朝の支度をする頃だと思い、私は大阪から彼にテキストをしました。すると、『任されていた仕事が上手く行かなくて時間がかかっている。』そう返信が来ました。時間は刻一刻と過ぎ、旅行前にありがちな高揚感は全く異なるドキドキに取って代わって行きました。電話をかけても出ない。激怒した現場監督の友人からも連絡が取れないと言われ、私は途方に暮れました。

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深夜零時を回って、やっとテキストが来た時、彼は明らかにバーにいて、そして明らかに酔っていました。京都はそもそも行きたくないんだよ、とそこには書かれていて、明日はどうするつもりなの?と問いかけると、「もう行かない」そう言って連絡が途絶えました。

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次の朝、手のひらを返したような彼の理不尽さに私は憔悴し切っていました。滅多に助け舟を出さない私の母親が、飛行機に乗って大阪まで迎えに行くと言いました。そして約束の新幹線の時間をとうに過ぎた頃、今から会いに行くと彼からテキストが入っていました。

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難波の駅の近くの工具屋に彼はやってきました。私はずっと無言でした。母も程なくして東京から駆けつけました。近くのカフェに入り、貴方には今お酒が取り憑いていて、必死に飲ませようとしている、と口火を切る母。

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会社を経営している母は男よりも男気溢れる人で、一連の酒害行動に対しても、彼と旧知の仲の自分の娘に向かって、「ま、乗りかかった船だしね。人生でこういうことってあんのよ。誰がやるってあんたしかいないじゃない。ご両親も亡くなってるし、離婚しちゃってんだから。一人でなんか絶対助からないわよ。」と、いつもそのスタンスを崩すことはありませんでした。

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理性の塊のような人なので、彼女の説得は彼がキチンと治療をする事、に全て集約されていました。けれど、『否認の病』に冒されていた彼は、何時間経っても腕を頑なに組み、分かりましたとは絶対に言いませんでした。

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2014年もあと数日となった頃、私は完全に拠点を日本に移そうと覚悟を決めていました。そして夏にお世話になったクリニックと、都外に住む彼の叔父様とコンタクトを取りました。年の瀬のベーカリーショップで、私、叔父様、私の母、そして彼が狭い席に着き、神妙な面持ちの彼を目の前に、ともかくもう一度診察を受けて先生と相談してみようよ、と切り出しました。

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私はその時点で既にクリニックに事の逼迫性を伝え、新しい病院の予約と紹介状のお願いを年始に取っていました。以前、依存症の入院搬送を請け負いますという会社のウェブサイトに、ともかくタイミング(=やらかして本人がもうダメだと思った時)が大切だから事前に手はずを整えておく事が重要です、というような文言を目にしたことがあったからでした。

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と同時に、夏に問診をしてくれたクリニックの臨床心理士の女性からは個別にメールを受け取っていました。そこには『現在否認しながら再飲酒している中、輪子さんが日本へ戻って来ることを前提に入院されることは、病気に巻き込まれに帰ってくること、ご本人が辛いと感じる状況(本人の責任)を回避させる(病気のお手伝いをする)ことになるでしょう。』と書かれていました。

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それでも、私がどうしても彼の手を離せなかったのは、25年前の自転車を教えてくれた彼が、どんなに瀕死のような状態でも蛍のような微かな光を放っていたからでした。

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三ヶ日はウソをついて1日前倒しで以前の家族の元から東京に戻り、しこたま飲んでブラックアウトしたまま玄関先に転がっていました。それを隣に住んでいた叔母様が自宅に必死で引きずり入れたのを皮切りに、正体不明で荷物を置いたまま無銭飲食をし、仕事用の小型の斧がバックパックに入っていたため危うく銃刀法違反で検挙されそうになったり、iPadを無くして、拾ったとおぼしき不審人物が数日自宅の側をウロウロしていた形跡があったり、入院に至るまでの数週間は、お酒の連れてくる邪悪なものが整理券を配る位、彼の周りで蠢いていました。私は胃がキリキリと痛み、新年早々胃カメラを飲みました。10年タンスの中にしまい込んでいたジーンズが履ける程体重が落ちました。

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「私はあなたの身も心も健康な時間が欲しい」
連絡のつかなくなった携帯にテキストを送りました。